昭和45年11月15日 朝の御理解



 御理解 第32節
 「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。」

 信心生活をさせて頂く者、信心を頂く者の姿勢だとこう思うですね。こういう尊い姿勢だと思います。私は十五の時酒屋の小僧に行きました。七年間過ごさせて貰いましたが、布団を入れる押入の布団をトンとする壁にミレーという人が書いた「晩鐘」という絵がありますね有名な。農夫の方が夕方一日の勤労を終わって畑の中で夕日が沈みかかっておる遠くに教会が見えて居る。そこでこう黙祷を捧げておるという絵なんです。
 もうだから布団の上げ下ろしする時、必ずその絵を見るわけです。一日がそうありたい、そういう願いを持っとりますけれども、私共はなかなかそう一日、そういう気持ちでおるということはなかなか出来ませんけれども、ね、朝、目を覚まして布団を片付ける時、それから夜休ませて頂く時、布団の向こうの壁に貼ってあるミレーの絵を見ると、まあ思い出した様にそういう気持にならして頂く、いわばまあ今から考えてみると稽古をささいて頂いておったんだとこう思います。
 皆さんご承知でしょう、ミレーの「晩鐘」という絵を、有名な絵ですからね。実に見ただけで尊いものを感じる様な絵です。そういう言うなら祈りに明けて、祈りに暮れるとでも申しましょうか、そういう一日でありたい。ご苦労をここではそれを女が菜園に出てと、これは女に限ったことではありますまい。ね、自分が作ったお野菜それを抜くのに、ね、畑に行って大根一本取って来いと言った様な事で、自分が作った株をただ切るというのではなくて、やはりそれを、ね。
 地を拝んで抜く様な心になればおかげがあると、そういう様な心の状態を神様喜んで下さる。なるほど自分が蒔いたお野菜であり、自分が作ったお野菜に違いありませんけれども、それまでに天地の親神様の御恩恵を浴して育って居るお野菜ですから、ね、言うなら大地を拝む心、ね、お野菜もそうですけれども、ここでは地を拝んでとこう仰る。ね、ほんとに神様にお御苦労をお掛けしました。
 有り難うございましたとその大地を拝む様な心。しかもそれを煮て食する時に、神様頂きますという心、初めてそこにお野菜に対する感謝がここにありますね。神様頂きますという心あらばね、あたることがない。それを食べてね、腹痛を起こす様なことは決してないとこういう訳です。なかなかそれを分かって居るけれども、実行するということはほんとに至難、心に懸け通しに懸けておってもなかなか難しい。
 御祈念をさせて頂く時に皆さんが、拝詞を奏上されますね。生神金光大神様、天地金乃神様、中に祈りの文句がずっと素晴らしい祈りのうわゆる金光教的な祈りの言葉が並べてあります。それをお互い暗唱致して居りますから、それを唱え言葉として唱えております。只唱えておるだけであって、その言葉の一言一言を自分の心の中に頂いて読んでおる人は少ない。先日も或方が、その事をお届けされた方があった。
 今日はこの言葉通りの事を、心の中に思い念じながら、それを読ませて貰うた。唱えさせて頂こうと思いますけれども、ちゃんといつの間にかどの辺からか間違って来る。そしてから又途中で気が付いて、あらら途中で抜けた様になってしまう。どういう事をその途中に思うのですか。どういう事かというと、やっぱり煎じ詰めていうと、御祈念をさして頂きながら、その拝詞を奏上さして頂きながら、思うて居ることは我情のことであり、我欲の事であると。
 皆さん、そういう日日の拝詞を唱えさして貰う時にそんな風に感じながら唱えられた事がありますでしょうか。恐らく皆さんは毎日考えながら上げて居られると思うんです、ね、そうありたいと願って上げて居られると思うのです。又は何気なしに上げて居られる方もあるかも知れません。何気なしに上げていっても、それは言葉に出るだけでも素晴らしい言葉が綴ってありますからね、有難いです。
 けれどもそれを一つ一つ吟味しながら、味わいながら上げて行くことはもっと有難いことだと思う。それを途中で切ることなしにそれを思い続けながらその祈りの言葉の通りのことを念じながら、ね、ほんとに世界真の平和、世界総氏子の身の上安全とさえもね、いった様な事でもその事をほんとに心から祈りながらそれが唱えられて居ると有難いのですけれども、只そのそら言の様に只そら読みをしておるというだけに終わる。
 そういう程に実をいうたら難しいんですね。日常生活の中にです、神様を外してはならない。ね、何時も神様を頂き通しに頂いておくという。ですからせめて例えば朝起きた時と晩休ませて頂く時だけぐらいはね、ミレーの晩鐘ではないですけれども、ほんとに神様に感謝を捧げる、神様にお礼を申し上げる。神様にお願いをさして頂くと、という事になってくる稽古をしなければいけんのです。そしてそれがやはり身に付いて来る。
 私、今度あのう東京に先だってから参りました時に、初めて子供達にお土産というものを買いました。買う時間になりました時にあれは紙で作った財布でしょうか、値段は大変安いのです。それでも洗濯もきくと書いてありましたし、それをみんな一つづつ子供達にみんなそれぞれ柄の違ったのを買って参りましてね、それに中に一筆みんなにとにかくお父さんから頂いたお土産、恐らくこれをまあ。
 ろくそに使う子供はすぐ無くすかも知れませんけれども、大事にする子供はそれを一生恐らく持つかも知れません。中に一筆づつ何かがまあ書いてあります。先日御本部参拝を致します時に、幹三郎がまあ自分もお金を持っときたいとちゅうわけですねえですねえ。で、なら財布を持って来い。と、したらその財布をなおしてあったのを持って来ました。それにお金を入れさせて頂いた。
 ほんとにそれを何気なしにお金を入れてやるのに、あの開けてみましたら「神われと共にあり」と書いておる。神様は何時も自分と共にあって下さるんだと。ね、確かに私は思います。もう神様は何時も、私共と共にあって下さるのだ。但しそれを自覚するかしないかというところから、おかげが変わって来る。他に私が、九千円あまりその入れてやっとりましたら、帰ってからも返しませんもん。
 「あんたあのお金は返さなこて」と言うたら「僕は初めて頂いたとじゃけん貰う」と言うてからやりません。今度病院に行く時には、それを頂いて行ってる。もちろん財布の書いてあるお金もでしょうけれども、まあそうして大事にしてくれることは有難いとまあ思わせて頂いて、「なら持っときゃよかたい」ちゅてから「使いどもしなさんな」と言うて。使わんでも持っとくだけ持っとくと言うてから持って行きました。
 まあ親が子に対する願いというか、祈りなのですよね。神様がわれと共に何時もあっておって下さる。「神われと共にある」そういう自覚が、ね、お互いに出来て来ることが私信心だと思います。そこでやはり稽古をしなければいけません。それが段々身に付いて参りました時にです、ね、これはお野菜だけではありますまい、例えば履かせて頂く下駄にでも、ね、お礼を申させて貰うような心。
 いわゆる全ての物にお礼を申し上げる心、又は願う心。いわゆる感謝の心というものが伴うて来る事になりましょう。昨日、或方がお参りになりました、先日から娘さんの縁談の事でお願いに来とられました。大変良い所からお話があった。それでその話を進めて居られたところが、先方から仲人さんにちょっとこの見合わせとってくれという様な電話が掛かってきた。そこでその又すぐ次にまた電話が掛かってきた。
 ちょっと話を見合わせておってくれではあるけれども、先方の切るだけは切らんでおってくれといった様な電話であった。昨日参って見えて「大体先生あの縁談は成るものでしょうか、成らんものでしょうか」と。なんかこうはっきり言うて頂きたいという様なことを言われる、仲人さんが。けれどもはっきり言うたらそれまでの事。ね、私は金光様の信心はそこへんのところがはっきりしない事が有難いと思うのです。
 それをそれがその結婚が成就するとかしないとかは別として、あのそこにね、お互いが何かを分からせて貰う。又はそこからその事がおかげの飛び石伝いという様な事になってより又有難いおかげになって来るかも分からんのですから。そういう様なことを私からお願いさせて頂いて居りましたらね、こちらからその矢を持って焦点に向かってこう矢を射て居るところ、ところがその途中にね、大きな岩があるのです。ですからその岩を貫かなければ、向こうの方には届かないという様なお知らせでした。
ですからね、信心にはそういう云うならば厳しいところがある訳です。二代金光様四神様のみ教えの中にね、願うということ、ね、それはね、夏の炎天に岩を絞って水を出す様なものだと教えて居られます。「夏の炎天にね、岩を絞って水を出す」ね、それがどうでもおかげを頂きたいならば、ね、そういう気迫と激しいまでの神様へ向かう心が要るのだと。私はその事からいわゆる女の一念というか、ね、岩をも通す桑の実というような事を申します。女の一念というものはこれは女だけではありません。
 一念を貫くということなんです。桑の実といやあまあ柔らかいものでしょうけれど、その一念を貫くという事は岩をも突きほがして前に進むという様な気迫が要るという事。地を拝んで抜くという様な心になれば、おかげがあると。もうこれは実に簡単な平易なことですけれども、これを難しゅう言うとです地を拝んで頂く地を拝んで抜くという様な、そのいわばこれは願いになって参りますとね、そういうものが要るのです。
 拝んで願った、けれども頂けるなら頂く頂けんなら頂かんでよかといった様なものではない。いわゆるそれを一心の真を捧げての願いという様な事になります訳ですね。昨日、夕方御用させて頂いて居りましたら、久留米の佐田さんのお母さんが、昨日は少年少女会の合宿があっとりましたから御用に来て居られました。恵介君も一緒にお参りして居りました。ここで神様のお知らせを頂いたということなんです。
 それが前の日に頂いたんです、そうですがね、ねばいちというて頂いた。私はねばいちということなんか聞いたことがない。恵介くんもそれを分からない。お父さんに言うたところが、お前がねばねばしとるけんたいと言われた。ところが僕はそうは思わなかった。これは粘り強く一直線に進むことだと僕は思うたと。まあそれがおうとるだろうかという事でした。今日もその電柱から電柱の所に間になんか白い白線がずううっと引いてあるところを道を歩きながら頂いた。
 だからそれを思いこれを思うて、恵介君は恵介君なりにです、そういう風に頂いた。だから私は、恵介君が言うその方が本当だろう。一年以上もでしたかね、朝参りを続けた。最近お参りしたりお参りしなかったりしておるけれども、今度幹三郎兄ちゃんが入院したことに依って、僕はどうでもそのお願いを立ててお参りをしたい。今度は一つ粘り強くもう一直線にね、ね、
 幹三郎君がとにかく全快のおかげを頂いて帰るまでは一直線にその祈りを貫きたい、といった様な意味の事をここで夕べお届けをするんです。ね、成程ねばいちというのはそういう事かも知れん。いや、確かにそうであろう。信心には何というてもそれこそ粘りが必要である。しかもそれがもう一直線である。ねばいちということを頂いて恵介君その様に言うならば悟ったとこう言うて居ります。
 まだ小学校の二年生でしょうか、ね。やっぱりその一心を貫く姿勢を子供に神様が教えて居られるところを見ますとです、私共大人が果してどうだろうか。祈念拝詞を奏上さして頂く、只そらごとの様に口の中で唱えて居るだけ。ね、それをほんとに思い祈り続けさして頂いてその内容をいよいよ吟味さして頂きながら、ね、それを貫かせて頂けれるやはり御祈念すら出来ておらん様な気がします。
 大地を拝んで抜くという様な心になればおかげがある。おかげがあるという程しの私は拝み方というのは、そういう拝み方だと思う。誰でも毎日拝むことは拝みよる。けれどもおかげを頂いて行かないとするならその拝み方の工夫がまだ足りんのだ。ね、一念を貫くとか、又はどういうそこに大きな障害があってもそれを言い貫かせて貰うという程しのです、ね、炎天に岩を絞って水を出す程しの迫力というか、勢いを持っていわゆる拝んで行くという信心が必要である。
その先である。そういう一念を貫いて拝んで拝んで拝み抜かせて頂いたその先である。その先が煮て食べる時、神様頂きますという心にならなければならん。ね、拝んで拝んでその一念を貫いて拝ませて頂いて答が出てきた。その答を神様頂きますという心にならなければならん。自分の思う様にならなかったからそれは頂かんでは、赤が出ろうが白が出ろうがその事を有難く頂きますという心になる。そこに信心さして頂く者のね、姿勢がある訳です。そういう心の状態になる時です、そういう心あらばあたることなし。
 それが右と出ろうが左と出ろうがです、その事を神様頂きますという様な心あらばです、その事を自分の思う様になってはいないに致しましても、ね、あたることなしというおかげになって来る。だからここはひとつ二段、この三十二節は二つの段階を追って分からせて頂く様な気が致しますね。地を拝む、大地を拝むと。ね、大地を拝むということは、ね、大地を拝んで抜くという様な心があればおかげがなる。
 ここのところを願うということ、しかもその願うという事は願いが貫かれなければいけん。一辺拝んだからそれでよいというような事であっちゃならん。ね、それこそ岩をも通す程しの迫力を持って、祈り願っていかなければならない。ね、そしてその先のその先の出たところがです、もういわゆる出たとこ勝負である。ね、それを、ね、いわば私共は右と願って居るけれども左となった場合でもです、私共は実を言うたら右がよいのか左がよいのか本当は分からん。
 右がよいと思うとるけれども、左がよいのかも分からん。そこでそこん所ではです、それを頂くという心。ね、成行きを大事にするとか、成行きを大切に尊ぶとか、頂くとかとか言う事はそこにある。だからその前には、そういう一つの拍車というか、迫力というかそう言う様な願いのあっての、私は成行きを大事にする、願いもする頼みもする。そして成行きだけ大事にして行けばよいと、言った様な言わば生優しいものではない事が分かりますですね。
 どんな硬いものでもそれを貫かせて貰う、どんな障害でもそれを乗り越えさせて貰う。それこそその為には粘りが要る。ね、しかもそれが一直線である。そして後のことはそこんところを有難く、それを神様頂きますという心、いわゆる合掌して頂くという心。ね、そこに信心をさして頂く者の姿勢が私はあるという様に思います。三十二節を今日はその様な風に頂きましたですね。どうぞ一つ自分の祈って居ること。
 願って居る事がどうでもこうでもというその願い、いやどうでもこうでもと思って願っておってもです、例えば拝詞を一つ奏上さして頂くでも途中でちゃんと切れて仕舞って居る思いが。という程しに私共は弱い。何が切れて居るかというと、自分の我情が我欲がちらっと出た時にちゃんとそこは忘れて仕舞って飛び抜かしておると言う事になる。口では唱えて居るけれども、厳密にいうとその様にだから難しい。
 そういう例えば願いと、そして愈々煮て食する時にそれを愈々頂きます時にそれは甘い辛いと言わずにです、それを頂きますという心あらばあたる事がない。自分は甘いが良いと思うとった、辛いが良いと思うて居った。それでもどちらでも良い。ね、甘ければ沢山頂きゃ良い、辛ければ少し頂きゃ良い。とにかくどちらにしても神様頂きますという心をね、作ると言う事が信心の私はほんとの姿勢であると申しましたですね。
   どうぞ。